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鱒屋グループの定松社長の物件情報は半端でない。
ここにはこんな業態とか、ここはこんな感じならうまくいくとかさすが!!
売り物件 その1↑ ↓その2 店舗物件はもちろん、どこにどの業態が合うかやオーストラリアではラーメン業態、しゃぶしゃぶ・すき焼き業態、焼きそば等のB級グルメ業態など専門店は流行るとかすごい情報をお持ちだ。
ちなみに鱒屋本店のあるビルは日豪貿易のパイオニア、兼松房治郎が興した兼松発祥の場所
お店視察編
ペッパーランチ(シドニーでもかなりの人気店らしい)
セルフうどんのまっぺん(安価で提供を実現された大人気店)
シドニーで見つけた味仙ラーメン(ここのFC店はサービス含め汚く最悪)
kinokuniyaが入っているビルにあるラーメンの一番星(行列のできる店)
2階ながら鼎泰豊(Din Tai Fung)の人気はすごい。この反対側にある日本料理店は閑古鳥。
東(AZUMA)も人気店(現在4店舗あり社長の東さんと定松社長は昔一緒に働いておられた仲間)
mamakはマレーシア料理店(日本でいくとお好み焼きのような食べ物が人気でオープン前から行列ができていた)
とにかくいたるところにお寿司テイクアウト店
鱒屋・定松社長が監修プロデュースした“sake.sake dining”
chatswoodにいる“誠”大繁盛!!
表には行列が・・・
定松社長が新たに監修プロデュースされた焼肉店“錦”のチェック
鱒屋本店で指導されている定松社長
月刊食堂の大澤編集長とミストラル代表の武田(キイストン取締役チーフディレクター)と細見入れて鱒屋本店にてミーティング
dining&sake bar 美花にて打ち合わせ中、偶然にもオーストラリアでれんが屋など8店舗やっておられる井上社長と。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社物語コーポレーション 代表取締役社長 小林佳雄氏登場。
本文より~
父からは怒られた記憶がない、と小林。一方、母からはきびしく躾けられた。「肝っ玉かあさん」と小林がいう母からみれば、いつも級長に抜擢されるような小林も頼りない少年に思えてならなかったのかもしれない。当然、小林の精神のなかには、母から躾けられ、教えられたことが色濃く定着している。ただ、多くの子どもがそうであるように、母の躾や教育は、少年小林にとってもありがたいものではなかった。実際、大学受験を機に、母から逃げ出すように東京で一人住まいを始めている。1968年、小林は慶応義塾大学に進んだ。有名大学に進学したものの、小林いわく、「まるで勉強もしない、チャランポランな学生だった」そうだ。そのくせ、単位はうまくとった。ゼミにも先輩を上手に使って潜り込んだ。遊び回って迎えた大学4年の就職活動。大きな選択を迫られてもなお、小林はさまよえる青年のままだった。「当時のぼくは、いい会社に就職しないとカッコ悪いと思うタイプです。頭を何度も叩かれているのにまるで大事なことに気づかない。このまま就職しないのもカッコつかないから、親から100万円ふんだくって、1年間の休学届を出し、アメリカにトンズラした。最初は勉強するぞと意気込んで海を渡ったんですが2ヶ月で意志は砕け、結局、遊んで帰ってきた」。「うちはお金持ちで、オレは長男だし、家に帰れば二代目だ、なんて気持ちがあったのでしょうね。ただそれをするにしても、卒業してまっすぐ帰るのはカッコ良くない。だからフォーシーズンなどでブレイクしていた洋食・フランス料理店のコックドールに腰かけ程度に就職するのです。大学卒業してすぐにかみさんとも結婚。人生、なめ切っていますよね(笑)」。ただ、それが小林にとっては素直な生き方だった。ちなみに渡米での経験はある意味、無駄ではなかった、と後になって振り返る。アメリカ人たちの屹立した生き方に影響されたから。とはいえ、それはまだ心の奥底でかたちさえなさない「想い」だったのだが。・・・。
続きは株式会社物語コーポレーション 代表取締役社長 小林佳雄氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社プロントコーポレーション 代表取締役社長 竹村典彦氏登場。
東大、京大出身者が大半を占める。父の兄弟たちの話。7人の兄弟のうち、5人がいずれかの大学を卒業しているというのだから驚かされる。叔父の一人は、NHKの教育テレビに出演もしたことがある数学の教授。一方、母方は、祖父の代から雑貨屋を経営するなど、商売の家系。竹村が子どもの頃には、叔母が30人ぐらいお針子さんを雇うほどの洋服店を経営しており、母も、その店を手伝っていた。竹村には7つ年の離れた兄と、5つ上の姉がいる。「父はどちらかといえば寡黙な人でした。父が帰ってくるとTVも観せてもらえないんです」。「一方、母の方は商売をしていますから、いろんなお客様が来られる。お針子さんもたくさんいて賑やかでした」。どちらに似ていますかと質問すると、「母親」という答え。たしかにいまの竹村をみていると、気さくな性格も、商売上手なところも母親譲りのように思える。では、竹村自身は、どんな少年だったのだろう。・・・。
株式会社プロントコーポレーション 代表取締役社長 竹村典彦氏
豪州・シドニーに12日~15日深夜に弾丸トラベラーならぬ弾丸視察に行く。
目的は日本企業とシドニー鱒屋様との人的交流ほか、人材に関係する案件など様々。
今回このような機会を頂いたシドニー鱒屋の定松社長に心から感謝している。
これがまとまれば、今回の件含め、飲食企業様により良いサービスの提供するラインナップもかなり揃ってきた。
間違いなく、人材採用がまた厳しくなってきた。特に1~2ヶ月前から実感している。
今手を打っている企業とそうでない企業との差が1年後間違いなく出る!!
あと飲食業界が他の業界に追いつくように、働く環境の底上げしてもらうのに経営者にもっと啓蒙活動していきたい。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鉄道会館 代表取締役社長 野﨑哲夫氏登場。
「中学時代に学校のスキースクールで、スキーに行ったことがあるんです。まったく思うように滑れなかった。それに、寒いでしょ。もう、スキーなんかやるもんか、と。それが、スキー場の経営者になるんですから、戸惑うのも無理ありません。しかしどこに行っても現場第一主義でしたから、このままじゃいかん、リフトの運行員の皆さんと話すためにもスキーを滑って行かなければならなかったので、まじめに練習しました。ワンシーズンもやっていればさすがに上手になって、だんだん好きになっていったんです。」またスキー場ですから、毎日ケガをされるお客様がいらっしゃる。鉄道の安全レベルに慣れている立場から、そのあたりのリスクもカバーしなければいけない。もともと現場に出ていくのが好きなタイプですから、社長である私自身が率先して汗を流しました。みんなで、新しいアイデアを出し合いながら、全従業員と一丸となって再生していったのです」。新しいことに挑戦する時には、まずNOから入らない。YESにするために何をすべきか、社長が率先して行動することで雰囲気が一変した。社員たちの士気が上がる。さまざまなアイデアが功を奏し、業績が傾きかけていたスキー場に、大挙して若者が集まるようになった。従業員たちにも笑顔が戻ったことだろう。ところで、この「ガーラ湯沢」は駅の名称でもある。越後湯沢駅で上越新幹線から分かれた線上にある「ガーラ湯沢駅」は、スキー場利用者のために、民営後、新たに開業した駅である。駅前にスキー場が広がるロケーションは世界でも珍しく、このスキー場の経営者ということで、野﨑はのちにフランスで開催された「国際スキー・リゾート経営者会議」に日本代表として招かれ、講演している。バンクーバーに続き、2度目の海外講演である。いずれにしても「ガーラ湯沢」は、当時国鉄民営化の一つのシンボルでもあった。このシンボルを蘇生させた意味は大きい。・・・。
詳しくは株式会社鉄道会館 代表取締役社長 野﨑哲夫氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社キープ・ウィル ダイニング 代表取締役社長 保志真人氏登場。
物心がついた時、すでに父は事業家であり、兄弟で興した会社で専務として敏腕を発揮していた。ピーク時には30億円に達したというから、手広く事業を行っていたことが伺える。そんな父の背中をみて育った。仕事だけではない。忙しい合間を縫って家族旅行にも連れていってくれた。父親としても合格。父はかっこいい存在だった。一方、母は、お金の使い方に厳しかったという。贅沢しないで済むのは母のおかげといまでは感謝しているが、なかなかほしいものが買ってもらえずひくつになったときもあったそうだ。ところで、保志自身はどんな少年だったのだろう。「一言でいえば、冴えない少年でした(笑)」。「勉強も、運動もいまひとつだったから」。だが、しかたない部分もある。小学生時代、彼は何度も入退院を繰り返していた。勉強や運動に打ち込むことができなかったのだろう。病気は原因不明。中学になり、からだが強くなると再発することはなかったが、入退院を繰り返していたことが理由で、親しい友人がつくれなかった。社交性が育たなかった原因の一つである。・・・。
株式会社キープ・ウィル ダイニング 代表取締役社長 保志真人氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社マカフーヒアDining 代表取締役 鈴木正昭氏登場。
「銀座アスター」は、客単価1万円を超えるような高級中華料理店だ。繁忙期には月商が億を超える月もあった、という。この高級中華料理店「銀座アスター」が、鈴木の出発点。新卒200名の中の1人として採用された。鈴木18歳。当時、飲食店の序列はいまよりももっと厳しい。1日でも先に入れば先輩だ。銀座アスターは新卒採用しかしていなかったため、一番近い先輩でも1年間の開きがあった。だから尚更、序列は厳しかった。「最初は皿洗いからスタートです。ただ、皿洗いといっても大量の枚数です。やがて食材を触らせてもらえるようになるのですが、これも中途半端な量じゃない。いま思えば、『量』をこなすことで、技術が否応なしに身についた気がします」と鈴木。だが、厳しさもあったのだろう。徐々に同期が減っていく。200人の新卒採用者が1年後には50人になっていた。「大きな仕掛けみたいなものがあったような気がします。1人2人と抜けていくんですが、辞めていく人間は、理由はいろいろあるにしても淘汰されていったともいえるんです。結局、チカラのある者が残っていく。それが本格中華の味を引き継ぐに相応しい人を育てていくことになるのかもしれませんね」。鈴木自身は8年間、この「銀座アスター」で勤務した。8年といえば中堅どころ。彼を慕う後輩も生まれていたことだろう。それにも関わらず、退職。何があったのだろうか。・・・・。
株式会社マカフーヒアDining 代表取締役 鈴木正昭氏
記念すべき200回。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 岡本晴彦氏登場。
姫路市といえば、神戸にも、大阪にも近い。関西にも有名な大学が数多くあるが、岡本はあたりまえのように東京大学を希望する。「ストレートのはずが、1年余分にかかった」と岡本。だが、1浪だとしても、文句のつけようがない。岡本は、東京大学経済学部に進学する。ところで、大学に進学は、どのような意味を持つのだろうか。小学2年生から始めた塾通いが、いったん一つの成果を残すことになる。だが、終着駅に降り立ったわけではない。むしろ、ここからがスタートのはずだ。岡本の人生は東大に入学してどのように変化していくのだろう。学生時代はどのような学生でしたか? そんな質問をしてみた。すると、ほとんど勉強もしなかったという答えが返ってきた。スポーツ愛好会に所属し、テニスに熱中。音楽にも、当時流行りのビリヤードにも熱中した。東京という先進的な街が、また東大の最高学府ながら自由な校風が、いままでとは異なる道を示し、少年を逞しい青年に育ていったのではないだろうか。・・・。
株式会社クリエイト・レストランツ・ホールディングス 代表取締役社長 岡本晴彦氏