in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社千吉 代表取締役社長 渡邉喜広氏登場。
本文より~
バイクが欲しくて。
中学を卒業して、地元の県立高校へ進んだ。16歳になるとバイクの免許が取れる。1年の夏休み、バイクが欲しくて、当時、いちばん時給が高いという理由で、ある店のバイトを始めた。それが渡邉と吉野家の出会い。偶然でしかないが、偶然の出会いが人の一生を左右することも少なくない。「ちょうど新店オープンだったんです。アルバイトは学生が3人ぐらい。最初は週に1回だったのが、そのうちレギュラーで入るようになって。2年生の頃には、17時~22時の時間帯の責任者になっていました」。高校生には22時以降の深夜バイトが禁じられている。だから、学校が終わってから、高校生が許されている時間の最終まで働いた。もちろんバイクを買っても、辞めなかった。「責任者になれば手当も付きましたし」と言って笑う。
独り暮らし開始。吉野家、継続。
「独り暮らしがしたくて、仙台のバイオ科学の専門学校に進みました。その時、郡山の時の店長が、向こうでもバイトしたらどうだと。いままで通り手当も付くよ、と言うんです。慣れた仕事でしたし、ハイと返事をして仙台でも吉野家でバイトをすることになるんです」。バイトは楽しかったが、バイトに過ぎないという思いもあったのではないだろうか。バイクの大型免許取り、60万円もするバイクも買った。しかし、バイクで2度骨折。新品で買ったバイクは半年でおしゃかになった。専門学校のほうも、おざなりだった。1年半で、中退する。
大反対を押し切って。
「なんかとんでもない奴になるんじゃないかと両親は気をもんでいたようです。学校を辞めて、吉野家に入社するわけでしょ。もう大反対です(笑)」。やすきに流れたわけではない。アルバイトと正社員の違いも理解していたはずだ。ただ、いずれ実家に戻ろうと思っていたのも事実である。まさか、吉野家一本の人生が始まるとは本人も思っていなかったことだろう。「最初の2ヵ月は研修です。研修が終わって名古屋の店舗に配属されるんです」。名古屋は外食産業にとって、アルバイトの採用からして難しいエリアである。親の大反対を押し切ってまで入社したにもかかわらず、いきなり人手不足の名古屋に配属されてしまった。渡邉が20歳といえば1992年。バブルが弾ける年だ。・・・・・・・。
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