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「チアーズ」11月号(10.15発行)にて、ワーキングホリデー帰国者の就職支援企画第7弾の広告発信!!
今回のご登場は型無の矢野潤一郎社長。
オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
オーストラリアと日本の飲食業界をつなぐ架け橋になりたい!!
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ブルームダイニングサービス 代表取締役 加藤弘康氏登場。
本文より~
「実をいうと中学を卒業したら仕事をしようと思っていたんです。でも、さすがにそうはいかないので、高校に進んだんですが、バレー以外は何もしていませんから、成績はビリケツです。私より成績が悪いのは、みんな学校を辞めていったこともあってね。だから大学に行く気もなく、3年制の専門学校に進みました。普通、専門学校は2年制ですが、私が選択した経営コースは3年制だったんです」。「その学校を卒業して、念願の社会に出るんですが、初めて就職した会社を1年半で退職してしまいました。父からは最低3年、と言われていたんですが、ケツをまくってしまったわけです。その一方で、サーフィンにハマりました。もともと17歳でスノーボードをはじめたのが、きっかけでした。山と海の違いはあるんですが」。サーフィンのため、定職に就くのは断念する。フリーター。メキシコ料理を出すレストラン・バーに勤めた。仕事が終われば海に向かう。そんな生活が始まった。・・・・。
株式会社ブルームダイニングサービス 代表取締役 加藤弘康氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ユウシン 取締役社長CEO 兼 株式会社マック 専務取締役COO 國松 晃氏登場。
彼女も後にモデルをするぐらいだから、美男美女だったんだろう。付き合い始めた2人が仲良く渋谷を歩いている時にスカウトされた。「最初は、彼女がスカウトされたんです。でも、彼女に渡された名刺を取り上げて(笑)、ぼくが事務所に電話をしました。一応、どんなところか、確かめておこうと。軽い気持ちだったんですが、最初からトントンと仕事が決まり、TVCMも決まって。高校3年生の時の初任給が100万円でした」。順風満帆。大学にも進学せず、モデルの道を進んだ。売れると有頂天になり、金銭感覚も、人生の平衡感覚も、おかしな調子になっていた。「ある時、調子に乗っていたんでしょうね。ディレクターの悪口をいってしまったんです。それが相手の耳に入ってしまって。いっぺんに干されてしまいました。もう、見事なほどに。この時は、土下座までして許してもらうんですが…」。芸能界は、華やかなだけではない。ドロドロした人間模様もたしかにある。國松もまた、その洗礼を受けたことになるのだろうか。「モデル時代は決してマイナスじゃなかった。いろいろなことを経験できましたから。いまでも、あの時の経験は役立っています」。・・・・。
株式会社ユウシン 取締役社長CEO 兼 株式会社マック 専務取締役COO 國松 晃氏
(Free Bird Institute Namaka Campus内にて講演中)
(学生の皆さんの質問が多いのにはビックリ)
(せっかく語学を学んだなら業界問わず活かしてほしい)
(大盛況!! いい目、いい人材が多かった)
(フードビジネス業界に少しでも関心持って頂けたような・・・・)
(ミストラル代表の武田にも女性陣から多くの質問が・・・) <撮影:Ken Kawamura>
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社テンポスバスターズ創業者でもある株式会社あさくま 代表取締役社長 森下篤史氏登場。
兄弟仲がいい。長女がいて長男の森下。弟と妹が続く。森下が小学4年生の時に母が急死した。2年後父は再婚し、いまの母が後妻となるべく森下家の軒を潜った。「ガキ4人の家に来てくれて申し訳なくてさ。俺は一度だって、何かを欲しいなんて言えなかった」。父は役場勤め。生活が苦しいわけではなかった。「だけど俺には言えなかったんだ。母は学校の先生だからさ、通信簿をつけている時なんか、夜中の2時、3時まで仕事して翌朝にはガキ4人の弁当こしらえるんだから頭が上がんなかったよ。いま、あさくまでバツイチ手当っていうのを支給しているんだけど、それはかあちゃんから、女性の強さを教えてもらったからなんだ」。「そういや、妹はいまでも文句を言うんだよ。俺たち上が、かあちゃんにおねだりしないから、妹も我慢していたんだろうね。にいちゃんたちがくれた小学校の入学祝いが、ちびった鉛筆と消しゴミのカスだった時は、さすがにびっくりしたね。弟と一緒に教室の掃除のたびに拾ってビニール袋に入れていたんだ。だから、気持ちはたっぷり詰まっていたんだけどさ(笑)」。母は学校の先生、5人兄弟だったが、1人は幼くして亡くしている。・・・・。
株式会社あさくま 代表取締役社長 森下篤史氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社オペレーションエージェンシー 代表取締役 奥井雅士氏登場。
いつの頃からだろうか。モノを売って、サービスをして、お客さんが「ありがとう」といってくれる、それでお金をいただける。そこに魅了され、「商売がやりたい」と思うようになっていた。公立高校に進んだのも、それが「いちばんの理由だった」と奥井。「商売をするなら、法律のことを知らなあかん。そう思って、周りの反対を押し切って国立大学を受験しました。しかしそんな思いつきで受かるほど受験は甘くなく、あっけなく敗れました(笑)」。「それで、アルバイトも始めました。アトムボーイという回転寿司のお店です。最初は、勉強もできるようなシフトで入っていたんですが、そのうちおもしろくなって。アルバイトなのに発注まで任されるようにもなりました。2年間、バイトをしましたが、保険の代理店をしないかと誘われ、保険代理店の研修に参加することにしたんです」。可能性に溢れた青年は、商売をしたいという一心で、独立を前提に職を移った。・・・・。
株式会社オペレーションエージェンシー 代表取締役 奥井雅士氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鮒忠 代表取締役社長 根本 修氏登場。
「焼き鳥の父」と言われる人がいる。今回、ご登場いただく根本 修の祖父、根本忠雄氏だ。焼き鳥は戦後の焼け野原から日本が復興していくなかで庶民の間で流行する。ただ、当初は鶏肉が高価な食材で、代わりにガラ、スジ肉、あるいは雀を使っていたそうだ。そんななか祖父、忠雄氏は、儲けを度外視して鶏肉を使った「焼き鳥」を売り出す。これがヒットし、後に「焼き鳥の父」と言われるようになるのである。もう少し祖父の話を続けよう。1946年に復員した忠雄氏は。同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業する。ところが、冬場になると肝心の川魚が捕れない。それで、鶏肉を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始する。その一方で「鶏丸むし焼き」がヒットする。1951年に法人化し、初代、代表取締役社長に就任する。この忠雄氏の後を継いだのが、根本の父。父は引き継いだ「卸」「ケータリング」「レストラン」の3事業を軸に業績を伸ばしていく。その父から根本は33歳の若さで会社を引き継いだ。では、いつも通り時計の針を根本が生まれた時まで戻してみよう。・・・・。
株式会社鮒忠 代表取締役社長 根本 修氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川 毅氏登場。
横川が生まれたのは、1975年3月12日。出身は東京の国立市である。1970年代は、日本の外食文化にとってターニングポイントとなる時代である。1970年、万国博覧会が開催される。翌年、マクドナルドやケンタッキーの第一号店が銀座と名古屋市の一角でオープンする。その一方、ファストフード同様に、当時、一斉を風靡するファミリーレストランも70年代初頭に次々、誕生する。チェーンストアオペレーションなる理論をひっさげたレストランチェーンはまたたくまに主要都市を制覇する。日曜ともなれば家族連れが長蛇の列をつくった。当時の子どもたちにとっては、間違いなくレジャーの一つだった。この飲食黎明期をリードしたのが、のちに最大手となる「すかいらーく」である。創業は1970年7月7日。創始者の横川四兄弟はあまりに有名だ。この四兄弟の四男、横川紀夫氏の元に横川は誕生した。長男と妹に囲まれた次男坊である。・・・・・。
株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川 毅氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“クロスα”に株式会社リンガーハット 代表取締役会長兼社長 米濵和英氏登場。
目次
■漁師町が米濵氏の原風景。
赤い尖がり帽の屋根が印象的だ。リンガーハット。そう「長崎ちゃんぽん」を全国区にした会社である。今回のクロスαでは、この圧倒的な人気の「長崎ちゃんぽん」の生みの親であり、育ての親である米濵和英氏にご登場いただいた。
米濵氏は、1943年12月1日、中国山東半島東部の煙台という町で生まれる。元々、一家は鳥取市で暮らしていたが、父の代になって中国に渡り映画館を経営するようになっていた。つづき
■正義感を叩き込まれた少年時代。
米濵氏が3年生の時、青年教師が担任となる。米濵氏の行動がいっぺんするのはこの頃から。
「1年、2年の時は女の先生でね。舐めていたんでしょう。3年で男の先生になって、怖いから言われるままに勉強もするようになって」。つづき
■中・高、その時代の米濵氏。
■長崎へ。青年米濵氏の挑戦が始まる。
■県庁の食堂で、店長デビュー。
■日本の外食産業の変革期に、立つ。
■米濵兄弟、「ちゃんぽん」の実力を知る。
■託された事業。
■東京進出、全国に「長崎ちゃんぽん」旋風が起こる。
■東証一部上場を果たし、一線から退く。
■再登板、そして次の未来へ。
株式会社リンガーハット 代表取締役会長兼社長 米濵和英氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社フードナビ 代表取締役 渡辺大河氏登場。
転校に明け暮れたことが影響したのか、父や母に対する反抗からか、バイクで家に突っ込んだこともある。「正直、荒れていましたね、あの頃はとにかく親とうまく付き合えなかったような気がします」。優等生を演じたこともある。「中学になると、結構、TVに出ていました。TVで学校を紹介すると、わざわざ校長室に呼ばれて、褒めてもらえました。『よくうちの学校を紹介してくれた』って。実は、私以外にも2人、おなじ中学でよくTVに出る子がいたんですが、そのうちの一人は、いまや有名な女優です。私には、芸能人になろうとかっていう目的はもちろんないし、目立ちたいという気持ちもありませんでした。とにかく、いいお小遣いになったんです。チョイ役で5000円とか、1万円になりましたから。ただ、その中学も転校することになってからは、少し億劫になって、TVに出ることはなくなりました。ただ、いい経験だったのはたしかですね」。・・・・。つづく
株式会社フードナビ 代表取締役 渡辺大河氏