in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社藤一番 代表取締役社長 牧野正義氏登場。
殿様のように育てられ。
牧野が生まれた1960年は、昭和でいえば35年。ちょうど復興の足音が鳴り響き、戦争で傷ついた日本の経済が息を吹き返す頃である。
4年後の1964年には東京オリンピックが開催され、牧野が10歳になる年には万国博覧会が開催されている。
名古屋市も時代とともに区画整理が進み、現在の16区になったのは1975年頃だと思われる。ちなみに名古屋市に新幹線が開通したのは1964年。東名高速が開通したのが1968年のことである。
牧野の父は、この名古屋市で繊維会社を営んでいた。事業は順調で、資産も少なくなかった。3人兄弟の真ん中だが、長男の牧野にはいずれ会社を継ぐという、父との間に暗黙の了解があった。
「父は、男尊女卑を具現化したような人です。私は長男だから、夕ご飯も姉や妹より一品多いんです。でも、けっして姉や妹をないがしろにするような人でもなかった。姉や妹には早くから着物を与え日本舞踊の稽古もさせていました」。
「私にはそういうのがなかった。いずれお前には会社を渡すから、というのが父の言い分だった気がします。それはともかく、姉とも1歳しか違わないから、兄弟のなかで私がいちばん偉いんです。殿様のようなものです。男は、女より偉い。こういう古めかしい考えが染み込んでいました。これが、中学になってちょっとした事件につながるんです」。
シカトされる中学生
小児ぜんそくだったこともあって、スポーツはあまりやらなかった。だが、引っ込み思案というタイプではなかったのだろう。どちからといえば親分のように振る舞っていた。小学生の時は、それでも許されたが、中学生になるとそうはいかなくなってしまう。
「シカトされるようになったんです。そりゃそうですよね。女の子は最初からみくだしていましたし、お殿様のように振る舞っていた、それも悪かったんだと思います。傷つきましたが、当時はジブンが悪いとは思いません。だから『もう、オレは一人で生きていく』と心に誓うんです」。
「たしかに辛かったです。ただ、いま思えば、あの時があったから人間を観察するチカラも洞察するチカラもついたんだとプラスに考えられるようにもなりました。なにを大げさな、と思う人がいるかもしれませんが、40人ぐらいのクラスで何をするにしてもシカトされるんです。そのなかで生きていくわけです。これは壮絶ですよ。観察力や、洞察力がなければ、いっそう傷つけられるわけですから」。
部活は、3年の時、バスケットボールを少しやっただけ。成績は学年で中クラス。孤独と戦いながら、卒業する。・・・。
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