in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社紅花 代表取締役社長 青木四郎氏登場。
「BENIHANA OF TOKYO」、オープン。
父、湯之助氏がアメリカに乗り込んできたのは、青木氏が渡米した翌年の1962年。先見の明を持った湯之助氏は、日本の「鉄板焼」に目を付けた。
「アメリカ人は肉が好き、そういう単純な理由です。それに父はもとタップダンサー。人を楽しませることが得意だし、好きなんです。だから、パフォーマンスも取り入れていくんです。一方、鉄板焼なら料理人はいらないんです。父は、料理人を動かす難しさを知っていましたから、その意味でも最適だと思ったんでしょうね」。
ニューヨークの人たちに初めて「BENIHANA OF TOKYO」がお披露目されたのは、1964年。56丁目のウエストサイドにオープン。爆発的にヒットした。湯之助氏をサポートする青木氏も多忙を極める。
「シアトルからサンディエゴまでの間に、出店できる店を5軒探してこい」というミッションを受けたのもこの頃。長男のロッキー青木氏を社長に、「BENIHANA」は全米に広がっていくのだが、道を開拓したのは、間違いなく四男の青木氏だった。「BENIHANA」同様、タレント性のあったロッキー青木氏の名も全米に知られていく。当時、もっとも有名な日本人の一人だったのではないだろうか。
青木氏、28歳の賭け。「GASHO OF JAPAN」をオープンさせる。
ロッキー青木氏を広告塔にし、実質の経営は父、湯之助が行い、四男の青木氏がサポートする構図だった。サポート役だった青木氏がついにベールを脱いだのが1971年のこと。ニューヨーク郊外に、築200年経った合掌造りのレストラン「GASHO OF JAPAN」をオープンさせたのである。
「父以外は、全員反対でした。父も不安だったんでしょうね。2人きりの時に『四郎、大丈夫か?』と。『もう後がないぞ』と言っていました」。
「それでも、ぼくに賭けて巨額の資金を投資してくれました。父も、ぼくも目的はお金じゃない。お金で目が眩まないから、未来を観ることができるんです。アメリカ人たちが、合掌造りのぼくの店に嬉々としてやってくる、その様子が、ぼくの目にははっきり映っていました」。
市も巻き込んだ「GASHO OF JAPAN」は、ニューヨークタイムズの不動産カテゴリーの一面を飾ったそうだ。オープン2日間、町民は無料にした。小さな町が、一つの店に熱狂した。のちに、店と同様に町名が全米に広がり、地図にも掲載されるようになったという。
まさに父から受け継いだビジネスのタネを開花させたことになる。・・・・。
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