in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ペッパーフードサービス 代表取締役 一瀬邦夫氏登場。
母の一言で起業を決意。
一瀬が高校を卒業したのは、1960年のこと。昭和でいえば35年。戦後の爪跡が消え、いよいよ高度成長経済がスタートする頃だ。「ナポリって店に就職したんですが、おふくろに『日本で五本の指に入るコックになれ!』ってハッパをかけられたんです。そうか、でも、いまのままじゃ無理だと思って、本格的な料理を勉強するために旧山王ホテルに転職しました」。旧山王ホテルは、戦前、帝国ホテル、第一ホテルと並ぶ、東京を代表する近代的ホテルの一つ。ただし、一時アメリカ軍に接収され、アメリカ軍の専用施設になっている。一瀬は、このホテルで9年間、勤めた。
「いつまでも人に使われていてはいけない」。転機はまたも母の一言だった。一瀬、27歳、1970年のこと。母の一言で、独立に踏み切った。その店が『キッチンくに』。東京の下町・向島に生まれた、たった3坪7~8席のステーキ屋である。
「最初に勤めたナポリから、椅子とかテーブルとか冷蔵庫とかをもらってきて、ペンキを塗り直して」と、一瀬はふりかえる。独立と同時に結婚した奥様も手伝った。『キッチンくに』の船出である。むろん、自信に溢れていた。
ところが、閑古鳥が鳴いた。どうすればいいのか。知恵を絞る。答えはごく単純なところに落ちていた。
「ステーキというだけで、敬遠されてしまうような時代だったんです(笑)。いまもステーキは高いと思われがちですが、当時は、その傾向がいっそう強かったんです。で、そうかと気づいて、とにかく目につくところにメニューと料金を載せた看板をかかげたんです」。
これが、功を奏する。敷居は高いが、その一方で誰でも惹かれるステーキである。価格さえ分かればあとは財布と相談すればいい。良心的で、美味しいステーキの店があるとたちまち人気化する。数年後には、4階建ての自社ビルを建てるまでなった。
だが、いっけん順調にみえたが、問題もあった。スタッフが続かないのだ。なぜだろう。一瀬は思案する。「そうか、いつまでも1店舗だからいけないんだ」。「だから、希望が持てずに辞めてしまうに違いない」。そう考えた一瀬は、多店舗化に舵を取る。43歳の時である。だが、それは険しい山登りの始まりだった。
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