in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社資生堂パーラー 代表取締役 磯田 篤氏登場。
サッカー少年。九州大会で、選手宣誓。
鉄鋼の街で知られる北九州市に、磯田 篤が生まれたのは1957年4月。父は、八幡製鉄(現、新日本製鐵)に勤めるサラリーマン。磯田家は、一般的なサラリーマン家庭だった。それもそうだろう。北九州市は八幡製鉄のお膝元であり、住人の大部分が八幡製鉄の社員。大半が職場も同じ。一般的という形容には事欠かなかったからだ。磯田が生まれた3年後に弟が生まれ、磯田家は4人家族となる。
ところで、磯田に「影響を受けた人物は?」と聞けば、まっさきに父を挙げるはずだ。ごくフツーのサラリーマンだったが、彼の父は好奇心旺盛だった。磯田も、あたらしもの好きというが、父もたぶん、そうだったのだろう。その性格を証明する一つにサッカーがある。野球全盛期の当時、サッカーはまだめずらしいスポーツだった。そのスポーツに目を付けた磯田の父は、地元の少年たちを集めサッカーチームを結成する。磯田も当然、チームに入れられた。
幸い、八幡製鉄には、いまのJリーグに匹敵するサッカーチームがあり、選手たちが応援に駆け付け、教えてくれた。ちょうど磯田が9歳の頃、メキシコ大会が開かれ、日本は銅メダルを獲得。そのときフィールドで戦った選手たちも、磯田たちサッカー少年を快く教えてくれた。
強くないはずはない。オリンピックで日本のサッカーが銅メダルを取ったことで、ブームが訪れた。少年たちの間でもにわかにサッカー少年が増え、磯田が6年生時には、第一回九州大会が開催されることになった。福岡県代表として選ばれたのは、磯田のチーム。キャプテン番号は磯田が付けている。「大会が福岡で開かれたこともあって、福岡県代表のうちのチームのキャプテン、つまりぼくが選手宣誓をすることになりました」。「宣誓。」。福岡の青空に磯田の声が響き渡った。・・・。
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