in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に “くら寿司”の株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏登場。
本文より~
幼少期。
田中は、1951年、岡山県の中南部にある総社市に生まれる。総社市は、倉敷市に隣接する山に囲まれた盆地だそうだ。戦後復員した父親が市内で八百屋を開き、生計を立てていた。当時の八百屋はいまでいうよろず屋のようで、商品は野菜だけではなかった。「仏前に供えるしきびが良く売れた」と田中は回顧する。
父親といっしょにオート三輪で、その「しきび」を採りに山に向かうことも少なくなかった。水冷のラジエーターがすぐにいかれ、その度に田中が水をもらいに走った。
記憶のなかにある父は、厳しく、何より怖い存在だった。そんな父から気づきの大事さを教わっている。
「ヒトが気づかないことに気づくこと」で差別化が生まれる。とりわけビジネスの世界では気づきは重要だ。「くら寿司」は業界他社に先駆け、さまざまなしくみを導入していくが、これもまた田中の気づきから生まれた発想に違いない。父は怖い存在だったが、大事な教師だったとも言える。
オート三輪に乗って父とともに観た風景も、田中の記憶に彩を与えている。小高い丘から市内を流れる高梁川を観るのが好きだった。地を這うように蛇行した川は、少年の目に自然の壮大さを映しだしたはずだ。
9×9ができない少年。
田中には2人の母がいる。産みの母と育ての母だ。1歳の時に、産みの母の下から絡みとられるようにして父に連れ去られた。不思議なことにその時の情景を覚えている。オート三輪からいつもと違う高梁川が観えたという。父親と産みの母親は田中が5歳の時に正式に離婚。3つ上の姉は、祖父の家で暮らすようになったが田中は育ての母の下で育っていく。
育ての母は父に負けず厳しかったが、少年から活発さを奪うような人ではなかった。山に川に、野球にチャンバラ。田中少年は、町中を所狭しと走り回った。「代わりに勉強はぜんぜんしなかった」と笑う。
当時のおもしろいエピソードがある。
「私が小学5年生の時です。授業参観が終わって、先生が『うちのクラスには小学5年生になっても9×9がいえない子どももいる』といったそうなんです。帰ってきた母が、『9×9が言えない子がいるんだってね、先生がそういっていたよ』と笑うんです。まさか自分の息子だとは思わなかったんでしょうね」。
会話のつづきはお察しの通りである。
気まぐれに「9×9を言ってごらん」と問うた母も、問われた息子も、次の瞬間には絶句したというのである。
勉強ができなかったわけではない。9×9を覚えると算数が好きになって6年生時には姉の教科書をひっぱりだしてきて、中学2年の数学まで理解できるようになっている。
とはいえ、むろん勉強漬けではない。多感な少年時代を机に向って過ごすことを強要するいまの父母たちに、田中の子ども時代の話は、どう映るのだろうか。
「私は、面接でね。キミ、昔カブト虫を採ったことがあるかい? と聞くんです。私にとっては、そういうのが原風景。そういう原風景といえる少年時代を過ごすことが大事だと思っているんです。少年時代は少年らしく生きる。大人になって振り返っても、楽しくなるような、そういう時代を過ごしていることで人は強くなれると思うんです」。
田中はそういう風に、言っている。・・・・・・。
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