in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に “喜多方ラーメン板内”の株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏登場。
父と、自立と。
さまざまな商売をやった。中原ではなく、父であり会長である中原 明氏のことである。もともと北海道の酪農家の息子に生まれた明氏は大学進学で上京したものの、すぐに大学を中退。それ以降、ハンドバックや窓ガラスのサッシを販売するなどをして生計を立てた。結婚は早くて、長男の中原が生まれたのも、父、明氏がまだ21歳の頃のことである。
起業家精神旺盛な明氏は「信州そば中原」などを開業するが、なかなかうまくいかない。結婚したばかりの妻を店に残し、何度も修行に出かけた。その結果、料理職人として腕をあげていく。その一方で、一時期、会社組織に入り、フランチャイズ展開を任されるなどして経営ノウハウも吸収していくことになる。JR関連の子会社の役員に名を連ねたこともあった。のちに福島の名店「坂内食堂」に教えを請うため単身乗り込み、「喜多方ラーメン」を全国区にしたことは有名だ。
ただ、仕事に熱中すればするほど家庭を顧みる時間は少なくなる。「特に、会社を立ち上げる前後数年は家にもなかなか帰ってこなかった」と中原も語っている。たまに帰ってくると、「子どもにスグに雷を落とす怖い父」だったそうだ。
そういう環境のなかにあって、中原は小さな頃から自立しようと何度も己を奮い立たせていた。「父に反抗しているわけじゃないんですが、父にぜんぶ頭を押さえられているような気がしていたんです。でも、食べさせてもらっている以上、文句も言えません。だから、早く自立したかったんです」。
小学6年生の卒業文集では「将来、店をやる」と宣言したし、中学卒業時には「就職する」と先生に言い切った。稼いで家を出る、それが狙いだった。
そんな当時の中原には、父の会社を引き継ぐなど思いもよらない選択だった。
剣道一直線だった生真面目な少年が一転…。
ところで小学生から成績は優秀で中学校の入学式では、新入生の挨拶も任された。剣道の道場にも毎日通う、文武両道の少年だった。今でも付き合いがあり、「合宿の時には米を差し入れる」という関係の、この時の道場主は、中原にとってある意味、父親代わりだったそうだ。
「週6日は通いました。学校が終わればスグ道場に向かいます。けっこう強くなって、警察の道場で練習したり、大学の練習に参加させてもらったりしていました。でも、ある時、このまま剣道をつづけていっても警官か、消防士か、そういう将来しかないと思うようになって。それで中学3年の時にあっさり辞めてしまうんです」。
高校は県内でも指折りの進学校に進んだ。しかし、高校進学は、中原にとって気乗りがしない選択だった。すでに書いた通り、中学の先生には「就職する」と一度は言い切った中原である。
「できるならそうしたかった。でも、まだ子どもです。巧く丸め込まれたというか、結局、長い物に巻かれてしまったというか。そういうジブンもイヤで」。
中学に「志」を置いてきてしまった。そんな思いだったのだろうか。高校生になると勉強をする気もうせた。悶々とする日々がつづく。だが、けっして高校時代が楽しくなかったわけではない。
「私服が許された、自由な校風だったんです。朝、出席簿を付けるためだけに登校して、スグにふけるんです。パチンコに行って、そのままアルバイトです。イベント関連のバイトで1回、1万円ぐらいもらえましたから、パチンコの分と合わせると結構な額になりました」。
流されるままの生活。「楽しくない」ことはなかったが、「むなしさ」をかみしめるような日々だったのも事実である。・・・・・。
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