in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社イエローズ/株式会社シェアハピネス 代表取締役 白根智彦氏登場。
何不自由のない生活。
日本でいちばん暑い町として知られているのが、埼玉県熊谷市。2007年8月には40度を超えたというから、暑くなった日本でも、群を抜いている。
この熊谷市に白根が生まれたのは1965年。1964年に、東京オリンピックが開催され、いよいよ日本も復興の足音を高めていく時代である。だが、熊谷市は埼玉県でも北部に位置しているため、復興の足音はなかなか響いてこなかったかもしれない。
とはいえ、白根家は、地元の名士。父はサラリーマンだったが、母は、地元で有名な白根家の長女だった。だから、昭和40年代でも、白根は何不自由なく暮らすことができた。「小さな頃からいいものばかり食べていました」と白根本人もそう言っている。
テニスにハマる。
中・高とテニス部に所属。中学時代、なんとなく「格好がいいから」と始めた軟式テニスが、白根の少年時代の大部分を占めることになる。中学では関東大会、高校ではインターハイにも出場。朝から晩までテニス漬けだった。「おかげで、ぜんぜん勉強しなくなっちゃって。それでも高校に進学した頃までは、東大を真剣にめざしていたんですが、高校3年間も、テニス一本やりでしょ。進学時には、まったく話になりませんでした」。
テニスに明け暮れた6年間にプラス1年間の浪人生活を経て、「学習院」の門をくぐった。
「大学ではテニス同好会に入ります。勉強そっちのけで、よくあれほどテニスばかりしていたもんです。大学の近くにアパートを借りて、平日の月~金は、そちらで寝泊りしていました。週末だけ熊谷に帰って家庭教師のアルバイトをしました。高校は男子校。大学では女子もたくさんいたし、同好会だから尚更なんですが、私は部活動みたいな感じでやっていたと思います。いま思えば、もう少し勉強にチカラを入れておくんでした(笑)」。・・・・・。
株式会社イエローズ/株式会社シェアハピネス 代表取締役 白根智彦氏
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