in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社聘珍樓 代表取締役 林康弘氏登場。
父、危篤の一報でアメリカ永住断念。そして、父から解雇される。
林氏は、小・中・高を「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」で過ごしている。「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」は2000年に廃校になっているが、明治43年に設立された英語教育主体のインターナショナルスクールである。大学は上智大学に進んだが、学生運動が激しく授業も困難となったため、1年後、日本を飛び出しカリフォルニア大学に編入。大学2年生からアメリカで暮らしている。林20歳。1969年のことである。
林氏は、当時のアメリカの様子を次のように語っている。
「アメリカ時代は、私にとっても一番楽しい時代だった。当時は、イージーライダーが封切されて、主演のピーターフォンダがカッコ良かった。自由の国アメリカの象徴でしたから」。ハイウエイを突っ走って、カナダまでかけたこともある。学費はバイトで賄った。「父は元々、米国留学にはあまり賛成してくれなかったので、4年間を通して、3000ドルしか出してくれなかった(笑)」。勉強ももちろんした。経営学を専攻して卒業、大学院に入りかけた時、父、危篤の一報が入った。「アメリカで暮らそうと思っていた矢先、父が危篤。急遽帰国しましたところ、幸いにも回復しました。その時だった、父から聘珍樓に入るよう言われたのは。アメリカ永住は、これにて断念(笑)」。
「しかしながら、当時は私も若く、父の下で、小さな飲食店で働いて生きて行く気にはなれず、苦労してアメリカで勉強してきたものを何も生かせないような気がして、なんでこんな仕事をと、反発しました。やる気がないからダラダラして、2回遅刻して、抜け出してパチンコしているのをみつかって、クビになりました(笑)」。
「家も出ることになり、取り敢えずはサラリーマンに。あるエレクトロニクス商社に入社しました。その当時、日本ではまだ半導体をつくれる技術がなかった。だからシリコンバレーの会社と合弁会社をつくっていました。暫くしてその会社をいったん辞めて、今度はソニーに中途入社。でも、入社早々に、フランス支社への配属の辞令が出たものですから、転職を考え、その後外資系の男性化粧品会社でマーケティングの仕事に就きました」。
6代目社長である、父、達雄氏から、林氏が「聘珍樓」の事業を継承するのは、すでに書いたが1975年のことである。「結局、サラリーマンを3年続けましたが、ここで聘珍樓7代目に。父の要請でした。店をどのようにしようと全て任せた、と。この時を境に改心し、この時が、私にとっての聘珍樓のホントの意味でのスタートだと思います」。・・・・。
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