in-職(いんしょく)ハイパーの“クロスα”に日本ケンタッキー・フライド・チキン 取締役執行役員専務 中川達司氏登場。
■日本ケンタッキー・フライド・チキンと師である大河原氏との出会い。
教壇から見れば、階段室の最後尾。そこから質問が次々に降ってきた。向かってくる奴だな、というのが現ジェーシー・コムサ社長、当時、ケンタッキーフライドチキン(以下:KFC)の日本1号店店長、大河原氏が最初に抱いた印象だった。
1970年11月、大河原氏は、間近に迫った1号店(名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内)オープンに向け、アルバイト集めに奔走していた。苦肉の策として訪れたのが市内にある栄養専門学校。就職を控えた学生たちに「日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下:日本KFC)」という飲食事業を行う会社をプレゼンテーションさせて欲しいと頼み込み、階段教室に学生達を集めてもらったのである。・・・。
■1号店の失敗。事業継続に赤信号。最後の賭けで、4号店出店。
大河原氏が奔走して、開店に漕ぎつけた1号店だったが、結局、不発に終わってしまう。「月を追うごとに業績が悪化していくんです。でも、僕たちからすれば、毎日食べても飽きないほど旨いし、鶏肉だから高タンパク。当時の日本人は、そういうのを求めていたから、いずれ業績は回復すると信じていました。それが支えにもなったんです」と苦戦の日々を振り返る。しかし、業績が回復する気配はない。しかも、店長の大河原氏は、アメリカ研修に行ってしまう。思いとは裏腹に、結果は空回りするばかりだ。・・・。
■1950年生まれの愚直な青年が、引き継ぐ、ケンタッキーの理念。
1950年、中川は、公務員の父と教師の母との間に生まれる。1950年といえば、戦後間もない頃だ。幼稚園まで愛知県の新城市で育ち、その後、父の転勤に伴い豊橋市に移り住んでいる。「両親が忙しかったため育ての親は祖母だった」と中川はいう。学業はもちろんだがスポーツも万能で、中学時代には、バレーで県大会に出場し、高校に上がる頃には、「スカウトが来るぐらいの選手だった」という。・・・。
■ケンタッキー号、いよいよ発進。神戸から東京へと一足飛びに飛躍する。
神戸三ノ宮のトーアロードで大成功を収めたケンタッキーは、いよいよ東京に進出する。南青山に5号店となる青山店を出店したのだ。もちろん、この店に送り込まれたのは中川である。その後、中川は、下北沢、原宿と、新店舗の立ち上げを任されていく。フランチャズもスタートし、中川は、トレーニングを任され、トレーニングスーパーバイザーとしても手腕を発揮する。業績が認められ、海外研修にも参加することができた。・・・。
■ケンタッキーを育てた中川から、いまの若者たちへのメッセージとは。
大河原氏と中川。名古屋にある、ある専門学校で偶然出会った2人が、ケンタッキーを育て、日本の食文化の、新たな一面を切り開いていくことになる。大河原氏が頭とすれば、中川は手足である。しかも、その手足には、頭脳も組み込まれていた。
いまの私たちには、「クリスマスにケンタッキー」というのが定番の一つになっている。それを仕掛けたのが大河原氏である。「サラダとアイスとチキンをひとつにして、売り出そう」、大河原氏はそう言い、当時、マーケティング部長だった中川が、冷たいアイスと出来立ての熱いチキン、そしてサラダを一つのセットしたバケット、いわゆるパーティーバレルを作りあげた。ちなみに、このパッケージは、中川の名で実用新案に登録されている。・・・。
■約半世紀を振り返って。
40年前、勘当された父とも、いつしか酒を酌み交わす間柄になったと、中川はいう。2人で飲んでいるときに、その父がしみじみといったことがある。「公務員の俺と、お前とどちらの人生が楽しかったかといえば、あれほど反対したけれど、結局は、お前のほうかもしれないな」と。・・・。