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先日“飲食の戦士たち”で取材させて頂いたサッポロライオンの刀根社長、5月22日発行の日刊ゲンダイの特集記事「社長の私生活」に掲載されてました。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
本日、6月15日発行の日本外食新聞にて、オーグードゥジュールグループ ギャルソン岡部一己氏が登場。
先日も青山学院大学でゼミ講義されたり、セミナー等コンサルティングでも大忙し!!
日経MJの連載記事“「売れる」スタッフ育成法”No.26に載ってました。
目標が達成できる人の特徴。
困難乗り越えた成功体験ない人や失敗すら経験少ない人ら採用してたらどうするの?
そうなってくると「育成方法じゃないじゃん、こんな人材採りましょうじゃん。」って思ってしまいます。
上記の内容は、ほんとその通りだと思います。
私は、育成の前に誰を採るかかが一番大きいと思います。
資質を見極める。
これこそ、採用の極秘なり。
本日、大阪よりタケモトフーズの竹本一善社長が東京出張のタイミングで社長取材させて頂いた。
そこに、なんとベルギー大使館の方や海外マスコミの方たちもいらっしゃった。
このタケモトフーズの竹本一善社長、ベルギーワッフルやエッグタルトなどを仕掛けた張本人でもある。
ベルギー王室御用達チョコレート ジャン・ガレーブランド“ガレー”のお店【Galler Cafe 新船橋イオンモール店】にて。
App Storeで見たら私の書籍だけ1,300円と極端に高くなった。 うれしい面もありますが、順位が急降下してるのは哀しい。
優秀な外部ブレーンも多く集まり、キイストンの骨格もしっかり整いようやく基盤ができました。
あとは営業レベルをアップさせるだけ。
今期は本格的に営業マン育成に力を注ぎます。
ただ、“馬を水辺に連れていけても、水を飲ませることはできない”(本人が気が進まないのに、周囲の人が無理にさせようとしても、無駄ということ)と、ことわざでもあるように、素直に成長したい人でないと教えるパワーもかかり、本人も伸びません。
なんで、素直に成長したい人だけに集中し全てのノウハウを教えていきます。
きっと年内には強い営業集団に生まれ変っていると思います。
ついでに外部で成長したい人や就職予備軍の大学3年生(インターン)も入れ細見営業塾でもやろうかな・・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社洋伸 代表取締役社長 赤澤 伸氏登場。
本文より~
赤澤が生まれたのは、1972年4月25日。出身は千葉県松戸市である。3人兄弟の三男で、兄弟は全員、格闘技を学んでいる。赤澤が尊敬する父は、新潟から単身上京し大学に入り、証券会社に勤務。母と知り合い、赤澤ら三人の子どもをもうけることになる。証券会社をスピンアウトした父は、不動産会社を経営。「子どもにも厳しいが、自分にも厳しい人だった」と赤澤は、父の思い出を話してくれた。「厳格で厳しい父でしたが、愛情はたっぷり注いでもらいました。いまでも、私は、父のことを尊敬しています」。社名に、父の名前を一字もらい「洋伸」と命名したことからも、父と赤澤の関係が良くわかる。「特に会社を経営するようになって、こんな場合、父ならどうするんだろうと考えるようになりました」とも語っている。
兄二人は、大学に進んだが、赤澤自身は、調理の専門学校に進んでいる。子どもの頃から、食の仕事に就こうと考えていたからだ。大学と違い、専門学校は厳しい。遅刻するだけで、授業を受けさせてもらえなかった。学校を卒業した赤澤は、上野の割烹でいったん板前修行を開始したが、2ヵ月で退職し、単身名古屋に向かった。熱田区の「中央卸売市場」で朝4時から働き、夕方からは飲食店向けに食材を売り歩いた。そんな生活を1年くらい続けたとき、父から一本の電話がかかってきた。「酔虎伝の経営権を譲り受けたから、店をやらないか」という誘いだった。まだ21歳。不安もあったに違いないが、それ以上にチャンスだとも思った。ただし、失敗はむろんできない。「とにかく必死にやるしかありませんでした。チラシを撒いたり、呼び込みをしたり。メニューにも工夫を凝らしました」。必死の努力が実り、赤字だった店舗は、赤澤が経営するようになって黒字に転換する。1年後には、月商が1000万円を超えた。経営者として上出来のスタートである。・・・・。
株式会社洋伸 代表取締役社長 赤澤 伸氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 有限会社クリエイトワークス 代表取締役 猿渡弘太氏登場。
「東京に行きたいというより、早く家を出たいと思っていました。でも、東京の大学を受験したんですが、失敗。結局、合格したのは、兵庫県下の甲南大学のみでした(笑)」。家から、それほどかからない。「大学時代は、バイトとスキー。学費と生活費を捻出するため、ゴルフのキャディからホテルのフロント、居酒屋のホールと、さまざまなアルバイトをしました」。「しかし、スキーとバイトばかりで、就活を忘れていて、4年生の4月半ばからのスタートです。30社ほど受けて、ある大手の証券会社に就職が決まりました」。
猿渡が大学卒業したのは1995年。バブル経済の破たんが、大手企業を飲みこんだ時代である。証券マンとしては決して恵まれた時代ではない。簡単にいえば、契約がなかなか取れない時代だったはずだ。この証券マン時代に、猿渡は初めて名古屋で暮らすことになる。負けずぎらいの性格が功を奏したのか、それとも、人好きの性格が結果を生んだのか、厳しい環境のなか成績はつねにトップクラスだった。ある上司に言われた言葉も猿渡の背中を押した。「ひとと違うことをやりなさい。寝る時間を惜しんで働きなさい。失敗しても、死ぬわけではないんだから」。「甲南大学には金持ちの子が多く、私は苦学生ですから、周りの学生とはずいぶん経済格差があったんです(笑)。あの頃からです。独立志向が芽生えたのは。就職しても、独立の思いは消えず、逆にそれが仕事の原動力になった気もします。先輩たちからも薫風を受け、仕事も決してきらいではなかったんですが、27歳で独立しようと、それだけはブレなかったですね」。 ・・・・。
有限会社クリエイトワークス 代表取締役 猿渡弘太氏
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リクルーティング&広報PR動画
(製作:AIDIA(エイディア)・運営管理:キイストン)
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2011.3.11 東日本大震災。その時“なんでんかんでん川原社長”は仙台の港でフードフェスティバルに参加していた。
もし、あの時津波に流されていたら・・・・。
その時から“なんでんかんでん川原社長”は生涯ラーメン屋をやること決意した!!
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