« 2011年8 月 | メイン | 2011年10 月 »
29日〜10月3日まで海外出張のため連絡取れません。 海外パケ放題プランも使えないエリアなんで、何かあればキイストン山本までご連絡ください。 03-5443-5783 平日 9時〜17時
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鮒忠 代表取締役社長 根本 修氏登場。
本文より~
「焼き鳥の父」と言われる人がいる。今回、ご登場いただく根本 修の祖父、根本忠雄氏だ。焼き鳥は戦後の焼け野原から日本が復興していくなかで庶民の間で流行する。ただ、当初は鶏肉が高価な食材で、代わりにガラ、スジ肉、あるいは雀を使っていたそうだ。そんななか祖父、忠雄氏は、儲けを度外視して鶏肉を使った「焼き鳥」を売り出す。これがヒットし、後に「焼き鳥の父」と言われるようになるのである。もう少し祖父の話を続けよう。1946年に復員した忠雄氏は。同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業する。ところが、冬場になると肝心の川魚が捕れない。それで、鶏肉を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始する。その一方で「鶏丸むし焼き」がヒットする。1951年に法人化し、初代、代表取締役社長に就任する。この忠雄氏の後を継いだのが、根本の父。父は引き継いだ「卸」「ケータリング」「レストラン」の3事業を軸に業績を伸ばしていく。その父から根本は33歳の若さで会社を引き継いだ。では、いつも通り時計の針を根本が生まれた時まで戻してみよう。・・・・。
株式会社鮒忠 代表取締役社長 根本 修氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川 毅氏登場。
横川が生まれたのは、1975年3月12日。出身は東京の国立市である。1970年代は、日本の外食文化にとってターニングポイントとなる時代である。1970年、万国博覧会が開催される。翌年、マクドナルドやケンタッキーの第一号店が銀座と名古屋市の一角でオープンする。その一方、ファストフード同様に、当時、一斉を風靡するファミリーレストランも70年代初頭に次々、誕生する。チェーンストアオペレーションなる理論をひっさげたレストランチェーンはまたたくまに主要都市を制覇する。日曜ともなれば家族連れが長蛇の列をつくった。当時の子どもたちにとっては、間違いなくレジャーの一つだった。この飲食黎明期をリードしたのが、のちに最大手となる「すかいらーく」である。創業は1970年7月7日。創始者の横川四兄弟はあまりに有名だ。この四兄弟の四男、横川紀夫氏の元に横川は誕生した。長男と妹に囲まれた次男坊である。・・・・・。
株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川 毅氏
おかげさまで、飲食企業様にメリットある、いい商材がここにきて急に増えてきた。
各商材をもっと知るため6社の企業の方たちに声かけしたところ
どこも快く集まって頂き、土曜出社し勉強会を実施。
皆さん、3連休にも関わらず、ご参加頂き大変ありがたい。本当に感謝でいっぱい!!
今後、中枢である求人部門(ヒューマンリソース事業)とは別にネットワーク部門(各商材紹介事業)を設ける予定。
現在ざっと数えると10アイテム以上あるんで、キイストンの業務領域が大幅に拡がっる。
お客様のニーズに応える、役に立つため、経営理念である「より多くの人・企業に夢・希望を与える」を貫かねば・・・。
9月24日(土)にオープンした“ちゃんこ 玉海力 銀座店”のセレブションに顔を出させてもらった。
平成8年オープンの「玉海力広尾本店」にはじまり、国内外5店舗を運営。
元関取の河邉社長は男気があり人間的にも大好きな経営者である。
前から、銀座・新橋にあればお客様紹介しやすいのに・・って思っていただけにうれしい。
(お店の入口になんと土俵が・・・)
銀座5-13-19 デュープレックス銀座タワー8階「ちゃんこ 玉海力 銀座店」地図東京メトロ日比谷線、都営浅草線「東銀座駅」より徒歩1分
玉海力といえば、まずは“塩ちゃんこ鍋”と地酒(竹筒)を!!
(お奨めの塩ちゃんこ鍋)↓
※沖井さん、写真撮られた時、足元切ってほしかった・・(笑)
in-職(いんしょく)ハイパーの“クロスα”に株式会社リンガーハット 代表取締役会長兼社長 米濵和英氏登場。
目次
■漁師町が米濵氏の原風景。
赤い尖がり帽の屋根が印象的だ。リンガーハット。そう「長崎ちゃんぽん」を全国区にした会社である。今回のクロスαでは、この圧倒的な人気の「長崎ちゃんぽん」の生みの親であり、育ての親である米濵和英氏にご登場いただいた。
米濵氏は、1943年12月1日、中国山東半島東部の煙台という町で生まれる。元々、一家は鳥取市で暮らしていたが、父の代になって中国に渡り映画館を経営するようになっていた。つづき
■正義感を叩き込まれた少年時代。
米濵氏が3年生の時、青年教師が担任となる。米濵氏の行動がいっぺんするのはこの頃から。
「1年、2年の時は女の先生でね。舐めていたんでしょう。3年で男の先生になって、怖いから言われるままに勉強もするようになって」。つづき
■中・高、その時代の米濵氏。
■長崎へ。青年米濵氏の挑戦が始まる。
■県庁の食堂で、店長デビュー。
■日本の外食産業の変革期に、立つ。
■米濵兄弟、「ちゃんぽん」の実力を知る。
■託された事業。
■東京進出、全国に「長崎ちゃんぽん」旋風が起こる。
■東証一部上場を果たし、一線から退く。
■再登板、そして次の未来へ。
株式会社リンガーハット 代表取締役会長兼社長 米濵和英氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社フードナビ 代表取締役 渡辺大河氏登場。
転校に明け暮れたことが影響したのか、父や母に対する反抗からか、バイクで家に突っ込んだこともある。「正直、荒れていましたね、あの頃はとにかく親とうまく付き合えなかったような気がします」。優等生を演じたこともある。「中学になると、結構、TVに出ていました。TVで学校を紹介すると、わざわざ校長室に呼ばれて、褒めてもらえました。『よくうちの学校を紹介してくれた』って。実は、私以外にも2人、おなじ中学でよくTVに出る子がいたんですが、そのうちの一人は、いまや有名な女優です。私には、芸能人になろうとかっていう目的はもちろんないし、目立ちたいという気持ちもありませんでした。とにかく、いいお小遣いになったんです。チョイ役で5000円とか、1万円になりましたから。ただ、その中学も転校することになってからは、少し億劫になって、TVに出ることはなくなりました。ただ、いい経験だったのはたしかですね」。・・・・。つづく
株式会社フードナビ 代表取締役 渡辺大河氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社マルハンダイニング 取締役社長 佐谷友巳氏登場。
佐谷は1972年9月、東京の亀戸に生まれる。「父も、亀戸の生まれです。宮大工で週末にしか帰ってこない人でした」と佐谷。ウィキペディアによれば宮大工は「渡り大工とも呼ばれ、何年も家を離れ社寺のある地に居住して材料、技法を検討しながら仕事を進める」のだそうだ。佐谷の父が週末にしか帰ってこなかったのも、そのせいだろう。「厳しい父でした。『人に迷惑をかけるな、弱いものイジメはするな』と教育されました」。父が子どもたちに厳しく接したのは、母親が心臓を患っていたことにも関係するのかもしれない。佐谷が小学校に上がる前のこと。母が長期の入院を余儀なくされ、2歳離れた妹と2人、親戚の家を転々とすることになった。親戚といっても他人の家である。2人は小さな体を寄せ合って暮らした。これが兄妹の絆を強くする。幸い、母は2年後に無事退院した。だが、完治したわけではなかったようだ。「小学生の頃、父から『母はいつ死ぬか分からない』と、そんな風に言われました。脅かして、しっかりさせようと思ったんでしょうね。それからです。母親を見る目が変わりました。家の手伝いを積極的にするようになったのも、その一言があったからです」。・・・・つづく。
株式会社マルハンダイニング 取締役社長 佐谷友巳氏
電源コードが漏電しかけていたので、
この1週間は自宅でパソコン作業できなかったが、ようやくできるようになった。
社員のH君はすごい。なんでもわかるし、なんでもできる。
H君なくして、キイストの管理システム無し。
いろいろなものが動きだしているので、
この休みはじっくりと戦略と企画等の仕事しよう。
「チアーズ」10月号(9.15発行)にて、ワーキングホリデー帰国者の就職支援企画第6弾の広告発信!!
今回のご登場はレインズインターナショナル 代表取締役社長CEO 西山知義氏。
オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
オーストラリアと日本の飲食業界をつなぐ架け橋になりたい!!
海外で通じる人材確保のためキイストンは海外経験者の就職を応援していきます!!