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カナダ・トロント発、日本人向け情報誌「TORJA Toronto+Japan」を塩原君が、ついに創刊した。
今年初め、知人もいないカナダに家族で渡り、一からメディア立ち上げはなかなかできない。
立派なものだ!! ※元キイストンの自慢のひとりである。
オーストアリア、ニュージーランドに次いでカナダはワーキングホリデー実施国で歴史がある。
オーストラリア、カナダとネットワークができあがった!!
飲食企業、飲食に携わる人材が世界に飛び立つキッカケになれば・・・・。
よく創刊まで持っていけたね、おめでとう塩原社長兼編集長!!
(表紙)
(飲食の戦士たち+ワーホリ就職支援広告)
27日、鱒屋の石原さん「チアーズ」を現地シドニーにて撮影してもらいました!!
ありがとうございます。
(鱒屋グループMISOの前にあるチアーズを撮影)
グローカル・スタイル
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社オフィチーナ 代表取締役 佐々木義夫氏登場。
本文より~
「すかいらーく」が誕生したのは、1971年。以降、ファミリーレストランは家族の贅沢の一つで、休日ともなれば行列ができていた。佐々木が高校生というから、この話は、1980年代初頭。「すかいらーくができたので、友だちと一緒にアルバイトを始めました。私はキッチンに向いていると思っていたのですが、なぜかホールを任されて、逆にホールに向いていると思っていた友だちのほうがキッチンを任されました。まったく逆だよな、と思っていたんですが、始めてみるとホールが向いているとわかったんです。どうやって私たちの性格を見抜いたんでしょうね。いまでも謎のひとつなんですが」。高校では、サッカー部に所属し、県でベスト8にまで進出している。「部活が終わってから、19:00~22:00まで、部活がない日は一日バイトをしていました。当時は、お客様が列をなしていた時代ですから、開店まえにはいまから戦いが始まるぞっていう、そんな雰囲気でした」。ある意味、飲食業が一番、元気だった時代である。・・・。
株式会社オフィチーナ 代表取締役 佐々木義夫氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社アンティシペーション 代表取締役社長 岡田康嗣氏登場。
漠然とだが、子どもの頃から将来は食べもの屋をするんだろうな、と思っていた。実家が、日本料理店を経営していたからだ。厨房に入り、遊んだ。さまざまな食材を魔法のように料理する職人たちに見惚れていたこともある。「中・高生になる頃には、天ぷらも揚げていましたし、鰻を捌いたりもしていました」と今回、ご登場いただく有限会社アンティシペーションの代表取締役社長 岡田康嗣は子ども時代を語り始める。小学校時代には剣道を習っていたものの中学になるとさほど熱心になれず、もっぱら友だちと連れ立って遊ぶようになった。親から言われていたことは、とにかく警察の厄介になるなということだけ。「勉強しろ」とも言われた記憶がない。「実家が祖父の代から続く、日本料理店だったこともあったんだと思います。祖父の武勇伝も聞かされて育ったことも影響しているのでしょう。小さな頃から事業に興味があった。だから勉強していい大学に進もうとは思わなかった。いつかオレも食べもの屋をやるんだろうな、というのが当時の漠然とした将来像でした」。「一方、将来のための勉強というわけではありませんが、中学生時代から美味しいお店に足繁く通っていました。自転車に乗って、有名な蕎麦屋さんまで足をのばしました」。グルメ少年と言えばいいのだろうか。スポーツやゲームに熱中するはずの子ども時代から、「食」に興味を持つとはなかなか渋い趣味である。料理店を経営する両親たちは、そんな息子の話に聞き目を細めていたかもしれない。・・・。
有限会社アンティシペーション 代表取締役社長 岡田康嗣氏
とにかく、玉海力の冷やしちゃんこ鍋の勢いが止まらない!!
TVやメディアに引っ張りだこ、スゴイ。
ちゃんこ鍋は冬場だけの常識を破りそう。
玉海力のHP
Amazon.co.jpの細見 昇市の著書ページ に載った。
一瞬でお客の心をつかむ飛び込み営業術はよく売れた。
電子書籍になったらいいが、全くそんな話無し。
ちょっと出版社が弱いような・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にたつ郎寿司 代表取締役社長 渋谷達郎氏登場。
「試行錯誤しているうちに思い出したのが『マズローの法則』です。いまではウチの店の行動指針になっています。あの有名な【5段階の欲求】です。その理論をお客様の欲求にあてはめ満足を引き出そうというのが、私のやりかたなんです」。「たとえば、お水が欲しいと思われているお客様がいらっしゃったとします。すぐにお持ちするのがベストですが、そうできない時もある。そのときは『少々お待ちください』と一言かければいいんです。その一言で、お客様は安心される。そこが大事なんです。その基本が大事で、過剰なサービスに走る必要はないというのが私の持論です。私は大学を卒業してスグにうちの店に入りましたから、どこかで学んだわけではない。だから、逆に素直に基本の大事さを呑み込めたし、マズローの法則に素直に従うことができたと思うんです」。こういえば怒られるが、寿司屋の経営は少し遅れがち。そんななかに、論理立てた経営を実践する渋谷が登場した。軌道に乗らないわけはない。・・・。
たつ郎寿司 代表取締役社長 渋谷達郎氏
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社浜倉的商店製作所 代表取締役商店製作長 浜倉好宣氏登場。
高校に進学した浜倉は、学校帰りに毎日、寄るところがあった。餃子の王将。「時給が良かったんです。周りの人はいかつい人もいましたが、可愛がってくれました」。王将の次には、当時、一斉を風靡したプールバーでアルバイトをした。このプールバーを経営する社長(当時34歳)が浜倉を新たなステージに連れ出すことになる。「食事に誘われたんです。京都駅のなかにある『お茶漬けととんかつ』のお店で、正直、京都駅といえば京都の顔なのに旧態依然で活気がなくて、なんだって気がしました(笑)。とても残念な気がしました」。その店がのちに、浜倉初のプロデュース店舗となる。高校を卒業後、その社長の下で仕事をするようになった浜倉は、古びた『お茶漬けととんかつ』の店を、観光客をターゲットにした<京料理をお膳ものにし1000円くらいで出す>斬新な店にリニューアルするアイデアを出した。「社長に話した翌日には、料理人と工務店の人が社長から言われたからといってやってきて、どんな店にすればいいのかを私に聞くんです」。当時、18歳。そのときの社長は、浜倉に何を見ていたのだろうか。ただ、浜倉には社長の気持ちを推し量っている余裕すらなかった。10歳以上年上の料理人たちとぶつかった。彼らと真っ向からぶつかりながら、いまのニーズにあった料理について浜倉なりの考えを主張した。真摯な人柄が、次第に頑固な料理人たちを動かしていく。そのうちに、個人的な付き合いまで深まり、彼らの推薦で当時、参加することもむずかしいとされていた「ホテル・レストランの研修会」に参加することまでできるようになった。・・・。
株式会社浜倉的商店製作所 代表取締役商店製作長 浜倉好宣氏
毎朝、朝会やってるが、7月10日よりH君の提案で、もっと明るく楽しくなる内容に一新した。
別の社員は、人材紹介サイトのリニューアルと新しい人材紹介サイトを準備中、また別の社員は自社PR動画を外部に依頼し進めている。
まだまだやって間無しだが、確実に変化しはじめている。
(キイストン心得帖より)